第15号(平成24年10月号)
生月島(いきづきじま)
もとゆき会 顧問 瀬田公和
この夏博多に住む友人から「生月島に行きませんか」という誘いをうけた。生月島は、平戸の西北に位置し、平戸と生月大橋で繋がっている小さな島である。
友人の話では、彼の先祖は、この生月島の領主の一人であったらしい。生月島は、現在では「かくれキリシタン」で知られる島であるが、戦国時代の末期には当時の平戸藩に属し、「籠田氏」と「一部氏」が領主として島を二分し、捕鯨を中心として非常に栄えていた。今でも数千人の人が住む海と空と緑の美しい島であり、クルーズの大きな船が、寄港できる港もあり、生月町の博物館「島の館」の展示からも、経済的に栄えた島だったことが分かる。
生月島の産業は、何といっても捕鯨だった。今日では見る影もないが、江戸初期の鯨組の頭領は、平戸藩から「益富」という姓を名乗ることを許され、壱岐をはじめ西海を中心に我国最大の規模を誇る捕鯨組織であり、最盛期には三千人以上の人が生月島の鯨組に属していたといわれる。
生月島は、また「かくれキリシタン」の島である。平戸藩は、はじめは貿易に対する期待もあって、積極的にキリスト教の布教を許したため、生月島ではまず領主が入信し、短期間でほとんどの住民が信者になったといわれている。その後、平戸藩も禁教に転ずることになったが、その際領主も転向させられ、生月島から平戸に退去させられた。
しかし、生月島は捕鯨の島であり、捕鯨は住民全員の共同作業によって成り立っていたので、信者たちは他の宗派の人々と集団を組むことをきらって、全体として密かに信仰を続けていたといわれる。平戸藩も、鯨組が藩の最大の収入源である限り、表面的な取り締まりはともかくとして、島民が密かに信仰を続けることを黙認したようである。
その結果、生月島の「かくれキリシタン」は、明治に入りキリスト教の再布教がはじまっても、必ずしもカトリック信者にすぐ戻ることはなく、戦国末期から江戸初期の潜伏時代のカトリック信者の祈りの言葉である「オラショ」を集団として唱え続けるなど、長期間にわたって当時の信仰形態を守り続け、他の地域の信者と異なる特徴を残しているようである。
このように生月島のような小さな島でも、過去の我国の歴史の跡が鮮やかに残っている。現在、尖閣諸島や竹島の領有権が大きな問題となっているが、これらの島々が、過去に我国の人々の生活とどう係っていたのか、領土紛争という現実を理解するためにも、その歴史を辿る必要があると考えている。
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