第11号(平成23年9月号)
“Old・New” もとゆき会 幹事 田中秀一
3・11未曽有とも言われ、この世で最悪の事態を招いた東日本大震災が起こった。あの時の「揺れ」は、未だに自分の体の中にインプットされたままだ。映像で観るあの濁り汚い大津波で流される家屋、車両などの大被害と併せて発生した福島第一原子力発電所の爆発による放射能被害、風評被害は深刻な問題となった。半年近く経過した今現在も被災地、被災者の生活環境を取り巻く諸問題は、解決の糸口が見つからないままだ。
私は、東京都内で理美容業を経営している。更に、全国理容生活衛生同業組合の一組合員として、また所属研究団体(社)国際理容協会の専務理事の立場にある。 本協会は、青森県、宮城県、福島県に支部があり多くの支部会員がいる。そこでは、亡くなられた方はいませんでしたが、沿岸部では家屋、店舗が流された方々、山間部では、家屋が崩壊した方もいる。私たち協会本部講師全員で、放射能による避難命令に従い避難所暮らしを余儀なくされている被災者の方々へ、義援金、支援物資を素早く配布した。
大震災発生40日後、私は家内と被災地である南相馬市に向かった。放射能警戒区域を避けながら到着すると、その地区一帯は、この世の物とはいえない程の悲惨な状況に、全身の震えが止まらなかった。今まで「何でも当たり前、そんなの当たり前だよ!」で過ごして来た事を振り返り「感謝する事」を軽視していたように思う自分を見つめ直した瞬間だった。計画停電、消費電力の節約などが求められ、普段の生活状況を見直す中で、私は子供の頃を思い出した。
私が生まれた所は、福岡県久留米市の南部 筑後川のすぐ傍にある。昭和25年〜35年頃までは、台風が来ると必ずと言ってよいほど大雨による河川氾濫で、村中が床上浸水になり家族全員で畳上げをしたものだ。家業は理容業で、私で三代続いている。その頃理容業は、「床屋」の愛称で親しまれ、小柄な父親は、高下駄をはいてカタカタと音をたてながら土間を歩く、8坪ほどの小さな店で半分は畳敷きの休憩場。そこには、囲碁将棋盤と駒があり、「髪を抓み終る」と地元の八女茶で一服しながら将棋を指す。他にお客がいなければ、作業場の電気は消す習慣があった。また、調髪料金の代わりに、地元の物産を持ってくるお客もいて、父親は快くそれを引き受けていた。店先の打ち水は、洗面器に水を汲み、手で日に何回か行うのは、普通の習慣、日除け代わりに何処の窓辺にも「苦瓜(ゴーヤ)」が茂っているなど「暑さ対策」を考えていたものだ。とにかく店全体に無駄のない工夫がなされていたことを思い出した。
モノゴトは時間が経つと自然に記憶が薄らぐ。私はこの大震災の教訓を真摯に受け止め、時代の移り変わりの中で“Old・New”を感じられる自分でいたいと思う。 |