第18号(平成25年8月号)
自己紹介 もとゆき会 幹事 加瀬大明
かわら版に投稿してください。断り切れない人からの依頼のようだ。
今年は例年になく忙しい。どうやら干支である「癸巳(ミズノトミ)」即ち当社の還暦年に起因しているようだ。
45年前に薬学部を卒業し、大手製薬メーカーにプロパーとして入社した。初めの赴任先は、道修町、それから東京へ戻り、大学病院と系列の四大病院と、担当し、計六年半、商売と薬の実践をたっぷり体験し、そのまま一生の職業と思いきや、癸巳化成鰍ニいう染顔料を製造して、生計を立てている小企業に転職した。
その後40年も勤め、内30年もの長期間、代表取締役を務めた。現在、振り返って無事次世代へバトンタッチできる恩恵に浸っている。
昭和49年石油ショック後、日本経済に於いて未曾有の不況時に入社した。結果的にはこれ以上の売り上げが底になったのは、現在迄ない。
新人が入社後すべて右肩上がりの体験上、従来いた社員からは、福の神のような存在となり、有難がられた。
製造する製品は、合成着色料という。絶えずマスコミを騒がしていた。特に食用赤色104号の一つは、この時NHKで報道された。内容は遺伝研に於いて日光照射により変異原性という、新しい言葉でセンセーショナルで、翌日から本体始め加工品等の返品の山が発生した。悪友共は、私の運もこれ迄と話題になったそうだ。後日談だが、これを機に当学界は花形となり予算もアップされたとか? その後は、宣伝文句に合成着色料不使用という事でおかしな宣伝効果が出回った。
その様な逆風の中、品質の向上、世界的に評価される商品開発等の努力のお蔭でかえって売り上げが増加したという幸運に恵まれた。
入社後の10年間は、現場製造、営業、開発研究、そして海外業務、要は何でも委されたという立場は、断れない性格が災いしたと思っている。そんな期間を卒業したら、先代社長が65才で停年となり急遽30代後半の小生を社長にした。本来喜ぶべき事、いや当社は、とんでもない事が待っていた。それは、環状八号線という大きな道路計画に工場が立地していた。
たぶん当社跡地が八号線の最後の問題個所で解決まで50年近く、平成16年5月迄引き延ばされ、現在は、金沢工業団地にお蔭様で5ヶ所の工場を持つことになった。何とか生き延びたのは、皆様のお蔭と感謝すると同時に、公共事業の買収といういやな体験が、当社を更に発展させた。この間の出来事に興味ある方は、個人的にお話しすると同時に、残された時間を更に有効に使い、皆様との出会いを大切に、筆をおかせていただきます。今後共ご支援の程宜しくお願いします。 |